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自分史の豆知識

2023/01/13

【1945年】自分史と関連付けて書きたい1945年の出来事

【1945年】自分史と関連付けて書きたい1945年の出来事

 

1945(昭和20)年に生まれた人は、今年(2023年)で78歳を迎えます。

 

■終戦


この1945年は、3年9カ月間に及んだ太平洋戦争が終結した年。8月15日正午、天皇陛下がラジオ(玉音放送)を通じて「ポツダム宣言」を受託したことを国民と全軍に知らせ、これをもって戦闘行為が停止されました。幼いながら、この日のことを鮮明に覚えている高齢者の方々も多いのではないでしょうか。

 

ポツダム宣言とは、敵国のアメリカ・イギリス・中国が日本に対して突き付けた降伏勧告のこと。この宣言が出されたのが終戦間近の7月26日で、その内容は日本の無条件降伏でした。しかし無条件降伏を呑んでしまえば、日本国の存続すら危うくなってしまうわけで、当然ながらやすやすと受け入れるわけにはいきません。

 

連合国側からのこの厳しい条件に対し、交渉の余地があると考えていた日本政府は返答を保留するのですが、その結果どうなったか。しびれを切らしたアメリカ軍は10日後の8月6日、広島に原爆を投下したのです。そう、ポツダム宣言拒絶からの原爆投下、これはアメリカが描いた筋書きでした。

 

結局、この原爆投下が決定打となり日本はポツダム宣言を受諾することを決定。その際に「天皇の地位存続」という条件を付け、それがアメリカに受け入れられたことで、8月15日の終戦を迎えたのです。

 

 

■硫黄島の戦い


では終戦のこの年、どのような流れで戦争終結まで至ったかを簡単に見ていきます。まず、注目すべきは「硫黄島の戦い」。二宮和也さん主演の戦争映画「硫黄島からの手紙」などで知っている人も多いと思いますが、この太平洋上にポツンと浮かぶ島で、日本軍の戦死者が約18000人、アメリカ軍の戦死者が約7000人という、史上まれにみる激戦が繰り広げられました。

 

硫黄島は最大幅4km、最大長7.2kmという、東京都新宿区の面積と同じくらいの小さな島。その場所は東京とグアムを結ぶ直線上の、おおよそ真ん中あたりに位置します。アメリカ軍の目的は、硫黄島を占領して自軍の飛行場として活用すること。周辺に島は一切ないため、硫黄島はいわば〝沈まぬ空母″。利用価値が非常に高いがゆえに、この島の奪い合いは苛烈を極めたのです。

 

特に日本軍としては、硫黄島を奪われてしまえば本土決戦という大きなリスクがいよいよ現実味を帯びてきます。だからこそ、是が非でも死守したいと考えていました。

 

しかし約40日間にわたる死闘の末、勝利したのは圧倒的な戦力を誇るアメリカ軍でした。日本軍の守備部隊約20000人に対し、アメリカ軍の上陸部隊が約110000人と、戦力は5倍以上。そのうえ、すでに太平洋上の制空権を持っていたアメリカ軍は戦闘機や戦艦からも容赦なく攻撃を加えます。到底、日本軍に勝ち目はありませんでした。

 

ただ、不利な状況下においても日本軍は最後まで諦めず、硫黄島の戦いにおける両国の損害は日本軍が戦死者約18000名、アメリカ軍は戦死者約7000名・戦傷者約22000名と互角以上に渡り合ったのも事実です。

 

 

■沖縄の戦い


硫黄島を占領したアメリカ軍が、次に目指したのが沖縄です。結局、この沖縄もサイパンや硫黄島同様、アメリカ軍の圧倒的な物量の前に屈して敗北。組織的な戦闘は4月2日から6月23日まで行なわれ、日本側は約19万人が犠牲になりました。そして日本が誇る大戦艦「大和」も、この戦いで撃沈しています。

 

太平洋戦争が始まって以降、洋上での戦いの主役は戦闘機。逆に、40年前の日露戦争時では大活躍だった戦艦の活躍の場が少なく、戦艦大和も本領を発揮できずにいました。しかし日本が危機に瀕している今、莫大な費用をかけて建造した戦艦大和を腐らせておくわけにもいかない。そこで軍部が考えたのが、沖縄戦への投入でした。

 

とはいえ、制空権を握られている沖縄に戦艦大和が駆け付けたとしても、米軍戦闘機の餌食なることは目に見えています。そう、このとき戦艦大和は神風特攻隊のように、死に場所が与えられたのでした。なお、反町隆史さんや中村獅童さんなど名だたる俳優が出演した戦争映画「男たちの大和/YAMATO」では、このときの様子が克明に描かれています。

 

 

■GHQによる改革が今の日本の礎に


結局、この年は硫黄島と沖縄を占領され、本土空襲が激しくなり、最終的には2発の原爆投下によりポツダム宣言を受諾するという、筆舌に尽くしがたいほどの苦難を経て8月15日の終戦に至りました。

 

敗戦後、日本は7年にわたりアメリカを主力とした連合国(GHQ)の占領下に置かれます。ポツダム宣言の条件により天皇制は維持されたものの、7年後の1952年まで日本は外交を一切遮断され、再び日本が強大な軍事力を手にしないように、社会の在り方まで徹底的に変更させられました。

 

実際、GHQが行なったのは武装解除による「非軍事化(徹底した武装解除)」、「民主化(四大財閥の解体など)」、「農地改革(大地主から土地を買い上げ小作人に分配)」、教育改革(アメリカナイズされた6・3・3・4の学校制度)、「医療制度改革(医療の分業制)」など抜本的なものが多く、これは今の日本社会の礎となっています。

 

こうして日本社会がGHQによって大きく様変わりするなかで、駐在するアメリカ人との交流を覚えている人も少なからずいると思います。例えば、日本の子どもたちが「ギブミーチョコレート!」と言いながら米兵にチョコレートをねだるシーンは有名かもしれません。また、教育改革の一環として教科書の軍的表現に墨塗りが指示されたのですが、実際にこの教科書の存在を覚えている高齢者の方々も多いのではないでしょうか。

 

 

■食糧難にあえぐ国民


日本は敗戦国家として、多額の賠償金を支払わなければなりませんでした。これによって日本人が直面したのは、深刻な食糧難です。国から配給される食糧では足りず、ひそかに流通する米、いわゆる闇米を購入して凌いだ家庭もかなり多かったはずです。逆に配給食糧のみを食べ続けた結果、栄養失調で餓死した人もいたという時代でした。

 

少量でも米が配給されればいいほうで、米がない場合はその代用品としてイモや小麦粉、大豆などが配給されました。とにかく食糧難の時代だっただけに、どうやって食料を確保したかに関するエピソードを持った高齢者も、きっと多いはずです。

 

今の若い世代の方だと、里帰りの際に祖父母が食べきれないほどの食事やデザートを振る舞ってくれた経験がある人も多いと思いますが、それは祖父母世代の人たちが幼少期時代〝食″に苦労してきたからです。自分たちがそんな経験をしたからこそ、子どもたちには美味しいものをお腹いっぱい食べてほしいという気持ちが強いのだと思います。

 

 

■様々な娯楽が復活


ともあれ、日本は終戦を迎えたこの年の8月から、また新たな一歩を踏み始めます。戦争終結によって約500万人が失業しますが、財閥解体や農地改革、各種インフラ工事、軍需工場から民間工場への移行など、様々な場所で人手が必要となり、各地の戦場から復員した多数の日本兵も含めて新たな職業に従事する人が急増しました。

 

文化面では、この年の秋には早くも大相撲やプロ野球といった人気スポーツが復活。「少年倶楽部」や「漫画日本」といった漫画雑誌も次々に再発足し、12月31日には紅白歌合戦の前身となる「紅白音楽試合」がラジオで放送されます。まだまだテレビのない時代、GHQは占領政策を徹底するためラジオ受信機の普及に力を入れていたこともあり、この年の大晦日には、かなり多くの世帯で紅白音楽試合が流れていました。

 

戦前と戦後で価値観がガラッと変わった、日本人にとっての大きなターニングポイントとも言えるこの年に何を感じたでしょうか。その率直な思いをぜひ、自分史に記してみてください。

 

 


〈1945年生まれの有名人〉
1月22日 高須克弥(医師。愛知県西尾市出身。ドイツで整形外科を学んだ後、1976年に美容整形を手掛ける高須クリニックを開院。僧侶としての一面も)
2月16日 逸見政孝(フリーアナウンサー。大阪府大阪市出身。フジテレビアナウンサーを経て、1988年にフリーに。「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」など数々の人気バラエティ番組の司会を務める)
3月13日 吉永小百合(女優。東京都渋谷区出身。日活の看板女優として日本映画界で一世を風靡。同世代のファンの総称「サユリスト」も多数)
7月24日 高田繁(元プロ野球選手。大阪府大阪市出身。明治大学を経て、ドラフト1位で読売巨人軍に入団。退団後は日本ハム、ヤクルトの監督を務める)
6月9日 青木雄二(漫画家。岡山県久米郡出身。代表作は「ナニワ金融道」など)
8月22日 タモリ(お笑いタレント、司会者。福岡県福岡市出身。1982年~2014年まで放送されていたお昼のバラエティ番組「笑っていいとも!」の総合司会としてお馴染み)
9月6日 永井豪(漫画家。石川県輪島市出身。代表作は「デビルマン」「マジンガーZ」「キューティーハニー」「ハレンチ学園」など)
10月9日 水前寺清子(歌手・女優。熊本県熊本市出身。1968年、「三百六十五歩のマーチ」が大ヒット。愛称は「チータ」)

 

 

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