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自分史の豆知識

2023/01/04

【1944年】自分史と関連付けて書きたい1944年の出来事

【1944年】自分史と関連付けて書きたい1944年の出来事

1944(昭和19)年に生まれた人は、今年(2023年)で79歳を迎えます。

 

■サイパン陥落


1944年は、終戦の前年。終戦といえば聞こえはいいかもしれませんが、それはすなわち大日本帝国の敗戦であり、日本が劣勢を強いられ続けているさなかで迎えた年でもあります。

 

この頃になると、開戦直後に占領したサイパンやグアム、テニアン、ペリリューなど太平洋の島々をアメリカ軍に奪い返され、それらの島を守るために配属された日本軍は、全滅必死の突撃である「玉砕」が相次いで行われました。
ミッドウェー海戦(1942年)やガダルカナル島での戦い(1942~1943年)で大敗を喫して以降、日本軍は一貫して苦しい戦いを強いられており、日本兵は物量でねじ伏せてくるアメリカ軍の攻撃になすすべもない状態だったのです。

 

なかでも日本軍にとって致命的だったのはこの年の7月、太平洋戦線における最重要拠点だったサイパンが陥落したこと。これによって日本本土はアメリカの大型爆撃機・B-29の射程圏内となり、以降、日本各地は連日のように空襲に見舞われることになります。

 

これを受けて日本の本土では、学校の校庭や空き地、個人宅の庭などに大量の防空壕が掘られるようになり、空襲警報が鳴ると一般市民はその簡易な穴に身を潜めました。実際、いまのシニア世代の方のなかには、幼少期に防空壕に入った記憶のある人も少なくないのではないでしょうか。

 

 

■本土空襲が本格的に


日本初空襲となる1942年4月のドゥリットル空襲(空母からの攻撃)以降、航続距離の問題でしばらく日本本土が攻撃されることはありませんでしたが、約2年後となるこの年の6月、福岡県北九州市の八幡製鉄所がB-29(アメリカ軍の大型爆撃機)から空襲を受けます。
これはアメリカ軍の基地があった中国・成都から行なわれたもので、航続距離の制約で九州の北部にしか届かなかったため、その地が狙われたという経緯がありました。

 

しかしこの年の7月にサイパンを手中に収めたアメリカ軍は、爆撃機の航続距離の問題が解決したことにより、いよいよ日本本土空襲を本格化させます。そしてこの年の11月から終戦まで、東京や名古屋の工業地域などを中心に本土空襲が行なわれるようになったのです。特に東京への攻撃は激しく、1944年11月24日~1945年8月15日の約9カ月間で、軍需工場を中心に106回の空襲を受けています。ざっくり言えば、当時の東京は2日に一度、空襲があったのです。

 

 

■死者10万人超の東京大空襲


数えきれないほどの空襲のなかでも、特に大規模だったのが翌1945年3月10日の夜間空襲、いわゆる「東京大空襲」です。特に激しい攻撃を受けたのは、浅草や墨田区、江東区などを中心とした下町エリア。この日の攻撃だけで死者10万人以上、罹災者は100万人を超えました。あまりの被害者の多さに、当時の新聞が「東京大焼殺」と報じたほどでした。

 

なぜ東京の下町が狙われたのか。それはアメリカ軍が、江戸時代に頻発した火事や関東大震災の研究を行なっており、大都市かつ木造住宅が密集する地域が最も火災に対して脆弱であると知っていたからです。実際、B-29から放たれた焼夷弾によって東京の下町エリアは火に包まれ、辺りは焦土と化しました。

 

こうした都市部全体を標的とした無差別爆撃は多くの民間人を巻き込んだわけですが、この攻撃は国際法の条約に明らかに違反しています。しかしアメリカ軍は、なかなか降伏しない日本軍に戦争継続を諦めさせるため、市街地を無差別に爆撃するという非人道的な行為に及んだのです。

 

 

■必死の攻撃、特攻隊


サイパンが陥落して本土空襲が連日のように行われるなか、何とかアメリカ軍に一矢報いたいとの思いで10月から新たに編成されたのが特別攻撃隊、いわゆる「特攻隊」です。

 

体当たり攻撃とも言われるこの攻撃は文字どおり、戦闘機や魚雷を改造した特攻兵器に搭乗員が乗った状態で敵の戦艦に突撃するというもの。これらの兵器で出撃した兵士は必ず命を落とすわけですから、もちろん反対意見も多くありました。しかし当時の日本軍は、各兵士が死を覚悟して特攻兵器もろとも突っ込まなければならないほど、戦況は追いつめられていたのです。

 

特攻隊として命を落とした人の多くは、10代~20代前半の若者。そもそもベテランの搭乗員の多くがすでに戦死していたこともありますが、戦時教育の影響を色濃く受けた若者のほうが、特攻を志願しやすいといった背景もあったようです。

 

結局、特攻によって海軍2531名、陸軍1417名、計3948名が犠牲となりました。そして特攻による戦果は、アメリカの公式記録によると死者8064名、負傷者10708名、撃沈55隻。この数字だけみると、特攻は一定の成果を上げていたことが分かります。

 

特攻隊と聞くと、憐みの感情を抱く人がいるかもしれません。しかし特攻隊に志願した人たちの本音は、生きて終戦を迎えた元特攻隊員の次の言葉に凝縮されている気がします。「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」。

 

 

■犬の肉まで食用に


終戦前年にあたるこの年、日本国内でもいよいよ危機感が増してきます。3月には政府が疎開促進の姿勢を示したことで、国鉄は上野から東北行きの疎開専用列車の運行を開始。こうして多くの子供たちが、この列車に乗って都心部から郊外の農村部に疎開しました。いまの高齢者の方々も、学童疎開の経験した方は多いと思います。

 

その農村部に対して政府は、スイカやメロンといった高級な果物の作付けを禁じ、主食となる米やイモの生産を命じました。さらに空き地や公園の敷地などの空きスペースを農地として有効活用することで、食糧確保に努めます。その一例として上野公園の不忍池は、池の水が抜かれて水田として活用されました。

 

街ではカフェや劇場、遊郭、料亭、待合茶屋(客と芸者の遊興場)といった高級享楽が禁止され、当時の一大娯楽だった宝塚歌劇団は休止に。逆に官庁では休日返上で多くの職員が、食料の配給や徴兵などで日々増えていく様々な戦時の事務作業にあたりました。

 

不自由を余儀なくされたのは、日本の国技として今よりも圧倒的に注目度の高かった大相撲も例外ではありません。大相撲の聖地・両国国技館でさえ、風船爆弾工場として軍に接収されました。そのため、この年の大相撲夏場所は後楽園球場で開催されています。

 

流行歌も戦時の影響をもろに受け、タイトルは「ラバウル海軍航空隊」「あゝ紅の血は燃ゆる」「勝利の日まで」といったように、その多くが戦争がらみでした。

 

人々の生活では、すでに食料は必要最低限のものが配給されるのみで主食は米からイモに。前年に引き続き、戦艦や戦闘機などの資材を集めるために家庭内にある鉄製品の供出が求められ、その対象はなんと飼い犬まで及びます。犬の毛皮は飛行服に、犬の肉は食用に用いられたのです。

 

また、この時期になると道路工事や河川工事、埋め立て工事といった様々な公共事業が中止になるなど、全ての資源が戦争につぎ込まれるようになります。これらにより、人々の生活は苦しくなるばかり。特に東京などの都市部では、空襲で悩まされる日々が続きました。

 

 


〈1944年の世相語・流行語〉
・鬼畜米英(敵国のアメリカ、イギリスを侮辱するためのスローガン)
・「進め一億火の玉だ」(戦時の政治結社、大政翼賛会が掲げたスローガン。軍歌の題名にも)

 


〈1944年生まれの著名人〉
1月4日 子門真人(歌手。東京都目黒区出身。1975年、フジテレビ系列の子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」内で流れた「およげ!たいやきくん」が大ヒット。オリコンチャート11週連続一位を記録)
1月14日 田中真紀子(政治家。東京都文京区出身。父は64~65代内閣総理大臣・田中角栄。日本で初めて女性で外務大臣を務めた人物としても知られる)
2月8日 山本寛斎(ファッションデザイナー。神奈川県横浜市出身。1971年、日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催し、一躍有名に。次女は女優の山本未來)
2月10日 高橋英樹(俳優。千葉県木更津市出身。任侠映画の主演スターとして頭角を現す。その後も数々のTVドラマや時代劇に出演し、晩年はバラエティ番組でも活躍。長女はフリーアナウンサーの高橋真麻)
2月24日 草野仁(元NHKアナウンサー、司会者。満州国新京出身。NHKを退職後、「ザ・ベストテン」など数々の番組の司会を経験。「世界・ふしぎ発見!」の司会者としてもおなじみ)
3月18日 横山やすし(漫才師。高知県宿毛市出身。1966年に西川きよしと漫才コンビ「やすしきよし」でデビューし、数々の賞を獲得。長男は俳優の木村一八)
4月15日  釜本邦茂(元サッカー選手。京都府京都市出身。日本サッカーリーグでは7度の得点王に輝くなど、日本サッカー史上最高のストライカーの一人として知られる)
5月6日 村上雅則(元プロ野球選手。山梨県大月市出身。アジア人初のメジャーリーガーとして1964年から2年間、サンフランシスコ・ジャイアンツで投手としてプレーした)
7月14日 久米宏(フリーアナウンサー。埼玉県さいたま市出身。TBSアナウンサーを経て、1980年にフリーに。約20年間にわたりテレビ朝日系列のニュース番組「ニュースステーション」のメインキャスターを務めた)
9月13日 島木譲二(お笑い芸人。兵庫県尼崎市出身。プロボクサーを経て、1980年に吉本新喜劇に入団。持ちギャグは「大阪名物パチパチパンチ」など多数)
10月28日 蟹江敬三(俳優。東京都江戸川区出身。個性派俳優として数々の時代劇や刑事ドラマに出演。経済ドキュメンタリー番組「ガイアの夜明け」のナレーションなども担当)

 

 

 

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