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自分史の豆知識

2020/09/04

ミニ自分史「高倉健」編

ミニ自分史「高倉健」編

ミニ自分史「高倉健」編

(ネット上の情報をもとに自分史風にアレンジしたコラムです)

 

 

■アメリカの文化に興味

 

私は1931年2月16日、福岡県中間市に生まれた。父は海軍の軍人で、炭鉱夫のとりまとめ役などを務め、母は教員として働いていた。だから実家は比較的、裕福だったと思う。
中学生のときに終戦を迎え、アメリカ文化に触れるなかで興味を持ったのがボクシングだ。とはいえ、周りにはボクシングができる環境がない。そこで私は学校の先生に掛け合ってボクシング部を立ち上げ、このアメリカから入ってきたスポーツに夢中で打ち込んだ。もともと私は幼少期より肺が悪く病弱だったが、ボクシングを始めてからは明らかに体が強くなったと感じた。
もう一つ、興味を持ったのが「英語」だ。中学時代にアメリカ軍司令官を父に持つ外国人の子と仲良くなり、週末になると小倉にある彼の家によく遊びに行った。彼の影響で英語が少しずつ話せるようになり、高校時代は英会話部を創設してさらに深く英語を学んだ。

私が進学したのは福岡県立東筑高等学校だ。それなりにレベルの高い学校で、政治や経済の分野で活躍した人を多数輩出している。その後、英語力が生かせる貿易商になりたいと思って明治大学商学部に進学。しかし大学生活を送るなかで芸能の世界に興味を持ち、その道に進むために色々と試行錯誤するようになった。とはいえ役者になるのではなく、裏方として何か仕事ができないかと考えていた。

 

■東映ニューフェイスとして

 

大学卒業後の1955年、大学時代の知人の紹介で、美空ひばりさんが所属していた「新芸プロ」のマネージャーになるための面接を喫茶店で受けた。するとその場に居合わせた映画プロデューサーにスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映に入社することになった。当時は映画全盛期の時代、「東映ニューフェイス」は新たな俳優を発掘するために設けられたプロジェクトだ。2期生は、たしか私を含めて19名いたと思う。当時、私は24歳になっていた。もともと役者志望ではないので戸惑いもあったが、せっかくお声がけをいただいたので何とか期待応えたいと思ったのも事実だ。

こうして私は俳優への道を歩み始めたのだが、すぐに仕事を得られたわけではない。映画デビューまでに銀座の俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の下積みを経験することが決められていたのだが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と言われてしまうほど、演技力に乏しかった。
とはいえ実は、東映に入社して一か月半後くらいには、1年後の映画作品への主演が決まっていた。その間に私は、関係者から「高倉健」という芸名を与えられた。正直に言うと、デビュー作の主役の名前「忍勇作」が気に入り、これを芸名にしたいと申し出たが、その案は却下された。たしかにいま振り返ると、寡黙で実直な性格を思わせる「高倉健」で良かったように思う。ちなみに本名は小田剛一。芸名とは似ても似つかぬ名前だ。

 

■挫折を経て一流役者へ

 

東映からは大きな期待をかけてもらっており、アクション・喜劇・青春もの・文芸作品・刑事・ギャング・戦争・ミステリなど様々なジャンルに挑戦させてもらったが、どれもいまいちヒットしなかった。
その要因は、芝居の硬さだ。どうしても周りが求めるような役者らしい豊かな表現ができないのだ。派手さや洗練さに欠き、低温の声も相まって、なんとなくではあるが暗い雰囲気が漂ってしまうのだ。実際に美空ひばりさんは、ある作品で私と組むのに難色を示したこともあったという。
そんなこともあり、私は演技よりも、立ち姿が様になるという点が評価されるようになった。セリフもどんどんカットされていく。そのなかで「寡黙な男」というイメージを持たれるようになり、任侠映画で皆さんに認知してもらえるようになった。ようやく生きる場所が見つかったような気がして、私は嬉しかった。

晩年は仕事を控えていたが、81歳で迎えた2012年には6年ぶりに映画「あなたへ」で銀幕に復帰した。翌2013年には文化勲章を授与することが決まり、皇居で行なわれた親授式に参加した。本当に名誉なことで、「日本人に生まれてよかった」と心から思えた出来事だった。実はこの先も、2015年公開の映画に主演することが決まっている。体が元気なかぎり精一杯、頑張りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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